〈11〉2000年とやま世界こども演劇祭



 2000年が21世紀の始まりであるように思っている人が多かったようだ(それとも、私一人だったのか?)。2000年は、21世紀の幕開けではないにしても、20世紀の締め括りであるという意味で、節目に当たる意義深い年である。だから、私達が富山で第六回目に当たる世界こども演劇祭を「2000年とやま世界こども演劇祭」として企画したのだが、実行委員会が動き出すまでに、一悶着あった。1990年、ドイツのリンゲンで世界こども演劇祭が始まった。これはIATAが「世界」という言葉を許す二つの演劇祭の一つである。(もう一つが、例のグレス・ケリー王妃の始めたモナコ世界演劇祭である。そして、前回の富山でのこどもたちの演劇祭が世界ではなく「国際こども演劇祭」というタイトルになっているのはその為である。)世界こども演劇祭は四年ごとにリンゲンで開催され、中間の二年目毎の偶数回がリンゲン以外の土地で開催されることになっている。第二回がトルコのアンタリア、第四回目はコペンハーゲンであった。それで、第六回を何処で開くか、ある意味で世界の関心が集まっていたのであった。IATA理事会の議事として扱われ、決定していくのだが、2000年という「節目」の年に開催を希望する所があるだろうとは予想されていた。案の定、富山(日本)の他に希望が出てきた。IATA会長のお膝元ロンドン、と言うよりはむしろ会長が開くことを望んだのであった。これは容易ならぬ事態と思いきや、理事会はあっさりとロンドンを蹴って、富山に軍配を揚げたという。理由は簡単明瞭、ロンドンには演劇祭の実績がない。それに対し富山は立派な実績を持っている。やはり、ローマは一日にしてならずである。着実な実行の積み重ねに勝るものはない。(世界こども演劇祭案を却下されたロンドンは、代わりに世界青年演劇祭を企画し、廣く参加を募ったが、結局行われたとは聞いていない。企画倒れになったとか。)

富山のこども代表
可西泰修くん

豆記者に囲まれ
気分はビッグスター
 世界こども演劇祭はドイツのリンゲンで、ノルベルト・ラダーマッハ氏が主唱して始まったものである。それで、ラダーマッハ氏とIATA青少年常任委員会の委員長パディ・オドワイヤー氏にアイルランドからロンドンに来て貰って、細かな点について、打ち合わせをすることにした。一つには、ラダーマッハ氏の提唱する演劇祭は「子どものための、子どもによる」演劇祭ということになっているのだが、富山では、「子どものための、大人と子どもによる」演劇祭と規定したいためであった。「つなぎ わたす」ことを称えている私たちにとって「大人と子どもによる」演劇祭でなくてはならないのである。一緒に舞台を創り上げることを通して、伝統的技法を教え伝え、子供たちの夢を叶える方策を学んで貰うことが狙いであった。ラダーマッハ氏はなかなかうんと言わない。「子どもによる」を主張している。しかし、この点でも、小泉さんがIATA理事会で説明し、富山は富山方式でやって宜しいとなっていたので、彼のメンツもあることだし、了解を求める手順を踏んだのである。最後には、了承して、成功を願うところで別れた。

 といった経緯を経てきているので、参加申し込みが殺到することが予測された。それで、参加申し込みグループから招待グループを決めるために、IATA本部の青少年常任委員会から委員(前述のオドワイヤー氏とデンマ-クのハウガー女史)を招いて、富山の委員と一緒に最終的選考を決める委員会を開いた。これまで通りの文書に加えて、ビデオを求めた。(公演予定の舞台のビデオを求めたのだが、全く異なったものを送ってきた国もあった。まだ舞台を作っていないからという理由で。だから、参考として見るに止まった場合もあった。)選考は可成り困難であったが、五大陸からほぼ全て選考されたし、何よりも、これまで一切世界の舞台に登場していなかったキューバから招待することが決まったのは、ヒットであった。

こども歌舞伎は“白浪五人男”

恐竜も歓迎!
富山のこども達のオリジナルの作品が各所に
一口に「こども」と言っても、小学生から中学生まででは、年齢的に6歳から15歳までの開きがあり、成長著しいこの育ち盛りの時期とあっては、精神的にも肉体的にも大きな隔たりがある。まして、西欧の連中と比較すれば、東洋は体格的に見劣りのする嫌いが無いではない。これをどう運営していくか。また国によっては参加したくても、日本までの旅費の調達に苦労するところがある。そういった問題を解決するためにも、基金を募らねばならない。幸い、各方面からのご理解を得て、遠来の客人をお招きして富山での滞在を楽しんでいただける見込みもつき、実行委員会が精力的に動き始め、事務局が前にも増して肌理細かな手配の準備に取りかかっていった。すべてがヴォランティア活動である。世界のこどもたちが集まってきて、富山のこどもたちが一緒になって世界こども演劇祭を作り上げる。そこでのこどもたちの喜びに意義を見つけ出した「大人たち」がこぞって参加されたのである。

 今回は、開会式に先立って地元富山のこどもから選抜した特別編成グループによるオープニング公演「ようこそ富山へ」(和太鼓、日本舞踊、洋舞、ブラス演奏など)が、Welcome to Toyamaで始まる歓迎の歌とともに始まった。八幡茂さんの作曲になるメロディはすぐ世界のこどもたちの心をとらえたらしく、ハミングする声が会場のここ彼処から聞かれた。

お馴染みのスペシャリスト達が
中沖豊知事を表敬訪問

2001年はモナコ世界アマチュア演劇祭で!
P・セラリオさん
 会期中、午前はみんなが呉羽の芸術創造センターに集まってワークショップやセミナーを受講し、午後と夕べに公演を鑑賞した。もちろん開会式当日の夕べには、恒例の北日本新聞社の花火大会を鑑賞した。そして、各国から来県された役員と代表者を招いたソワレが、富山県水墨美術館のロビーで開催され、タキシードにドレスの皆さんが、いわゆる「社交界」への試みを持ったが、おそらくこれも初めてのことであったろう。非日常性の異次元の世界に慣れ親しむことの面白さを実現しようとする劇的空間と時間の設定であった。(デパートのドレス特選売り場が盛況を極めたという噂があったが、真偽の程は不明である。)

 こどもの劇とは言いながら、それぞれが抱えている問題を舞台にメッセージとして明瞭に投影していたと言わねばなるまい。例えば、初登場のベラルーシ・グループは枯れた一本の木を中心に、彼らの送る生活を物語る。「希望」の祈りの言葉がアヴェ・マリアの歌に収斂して、白い花輪で飾られた「枯れ木」が蘇えりを示すとき、私達が日常で忘れている「祈り」の力を思い出させられ、深い感動に包まれる。委細は演劇祭の後に発行されている記念誌に詳しく掲載されているので、そちらに譲らねばならないが、演劇祭の本体である演劇公演はもちろんであるが、受け入れから、いや受け入れに至る前段階から、大会期間のすべての行事、そして送り出しに至るまで、諸般の運営にたくさんの方々のご協力があったからこそ、(呉羽のワークショップ会場にも、赤十字の印の救護隊が常駐していたことに、気づかれた方がおいでだと思う。西能病院あげての協力であったし、建物脇に消防車がいたのに気づかれた方もおられたろうが、富山市呉羽消防本部のご厚意によるものであった、)無事完了することができたのだと、感謝に堪えないところである。通訳ヴォランティア(富山外国語専門学校の学生たち)と、それに、後で世界こども演劇祭支援協議会として組織されたグループの方々とが果たした役割はきわめて大きかったと言わねばなるまい。繰り返しになるが、自分たちのこどもが海外公演に参加して味わってきた大きな感動体験を、今度富山に来たこども達にお返しするには何が一番か。それを、受けるこどもの立場になって、いろんな事を考え、工夫されたのだ。日本式花嫁衣装を試着することなど、男性の思考範囲を超えた試みは、世界中のこどもたちに大人気だった。

宣言文起草委員達が未来へ提言
石田千恵さんが日・英語、
小西紀子さんが仏語で宣言

次はドイツ・リンゲンで
会いましょう
 大会宣言文を作成したが、富山から出演したこどもたちから数名に起草委員として集まってもらい、こどもとしてどんなことを考え、世界に求めるか、各自書き綴ってもらった。大人たちの貢献は、みんなの主張をつなぎ合わせ、纏めただけのことで、大会のモットーとした"We Build the Future"が、今や実践されていることを強く感じさせられた。因みに言うと、開会式から閉会式に至るまで、主な式典の司会進行は富山の「こどもたち」が担当した。今回はIATAの公式行事ということで、言語は日本語と英語にフランス語が用いられ、それで、発表が三つの言葉で行われたため、時間的にも、労力的にも大変だったが、それをこどもたちがよくやってくれたと、大変感謝してる。(第一回の時小沢さんの助けがあったように、今回はフランス語に吉田泉さんが参加されて、大変な援軍となった。人事を尽くせば、天命は必ず助けてくれることの証左であろう。)宣言文は閉会式で起草委員から読み上げられ、大きなインパクトを与えた。閉会式で、国際アマチュア演劇連盟の会長ジャック・ルメール氏(フランス)は、参加した各国の言葉でさよならを言ったのだが、長く長く続いた「さよなら」には、一同驚きだった。

 今度も劇評は翌日「劇評新聞」として発刊され、好評を博した。耳に聞くだけでなく、文字で読み返し、また持ち帰れるところに、新聞の貴重な一面がある。ペーパレス社会と言うが、何事にも、長短はあるもの。すべてを効率よく使うことで、現代文明を利用していかねばならないのだろうと感じた。

 富山の代表が演じた宮島春彦台本、監修の「北の鳥と南の鳥」について一言。原作者はフランス人のピエール・グロス氏。モナコのグレス・ケリー王妃の愛読書で、こどもさんたちによく読み聞かせられたというもの。それをダンス・ドラマに仕立てた作品であった。講評を書いたアイルランドのメアリ・ペアズ女史は<「争うことなく、さまようことなく、新しい友といつまでもともと暮らす」とこども達は歌っていたが、それは夢だ。だが何という美しい夢だろう>と述べている。こども達には夢がなくてはならない。いや、子供ならずとも、人は夢見る動物である。夢を追いかけるところに、生きる意味があるのだ。夢がないところに、人はどんな生きる意義を見つけられるのだろうか?公演が終わると、みんな立ち上がって、拍手が鳴りやまない。明るくなった場内で見る人の顔は、感激に上気しているし、涙さえ見られた。おめでとうと、隣の席から握手を求めて手が伸びてくる。息を詰めて見入っていた後の興奮のざわめき。前会長のトーマス・ハーガー氏はこれは「心」で以て見られるべき劇だと言っている。心で見れば、公演の終わったとき目から大粒の涙が溢れていることに気づくはずだとも言っている。この演劇祭のテーマである「私たちが未来をきずく!」という言葉に、また、忘れられない感動の瞬間に対して、ただ感謝あるのみ、とハーガー氏は続けて述べているが、この演劇祭に参加した人たちは、みんな自分たちが未来を築くのだという自覚と、舞台上に展開されたいろんな問題やいろんな見解を持って生きている地球上の仲間達が、互いに理解し合って、友情を深めていくことを、十分に意識してくれただろうと思う。それが、「つなぎ わたす」この演劇祭を開催した本義なのだから。
戻る 目次へ戻る 次へ