〈5〉衝撃の9月1日!



 所で、こうした国際イベントでは、参加者は自国から開催国の国際空港等までは自弁で、到着してから帰国のための出発までが開催国が負担するのが恒例である。従って、大会運営費には、それらを計上しなくてはならない。

 準備活動が佳境に入り、富山でかつて無い大きなイヴェントの重く大きな車輪が、やっと回り始め、だんだん加速していこうとしていた矢先、予想を絶した大事件が起こり、世界を震撼させた。1983年9月1日、アメリカから韓国ソウル向けに飛んでいた大韓航空の旅客機が、サハリン上空で領空侵犯のためにソ連機に撃墜されるという事件が起こったのであった。未だにアメリカとソ連の東西対決が厳しい時代であった。なにも旅客機を撃墜しなくても良かったのに、という感情から、ソ連に対する反感がマスコミを通して廣く報道され、国際空港の閉鎖など、相当厳しい対応が見られたのである。再度参加の確認作業が始まり、結局、参加予定グループの中では、唯一イタリアが新たに航空券が取れないことから、参加を取りやめることになった。

 ハンガリー、チェコスロバキアは海のない国である。彼らは自国からシベリアを横断し、ウラジオストックから船で来たのだが、折からの台風の余波で、相当揺れたらしい。彼らが横浜に上陸したとき、同じ船でソ連グループも一緒だった。そして、それが、ソ連関係者が事件後初めて日本の地を踏んだ人となった。ミナト横浜にはソ連反対を叫ぶ人たちが集まっていて、警察の護衛の元に彼らは車まで行ったという。富山でも、マスコミ関係の某氏が、ソ連グループの公演が予定されているところから、反ソ運動を市民に問う必要性を話しに、わざわざ事務局までお出でになった。軽演劇の雄、萩本欽一氏の企画に、「キンドンなにがし」というものがあって、「良い子、悪い子、普通の子」というのが登場した。それをなぞらえて言うなら、良いジャーナリストは廣く世界を看取して、現象の奥深くに潜在する本質を指向し、歩むべき道を示すが、悪いジャーナリストは現象の表皮を見て敏感に、いや過敏に反応し、そこにだけ人々の耳目を集め、己に注目を集めようとする。つまり主観的でありすぎる。とかく浅い瀬はざわめいて人々に聞こえよがしであり、深い淵は静粛に、諸々のものを秘めたまま、流れてゆくものだ。この件を問題にした記者団の質問に、モート・クラーク教授は明快に答えている、「政治、宗教は人々を分かつものだが、芸術は人々を結びつなげる。演劇祭の意義はそこにあるのだ」と。但し、人間はどんなに立派な徳目でも、理解はしても、滅多に実践しない存在である。「馬鹿は死ななきゃ、治らない」のである。

シベリアを横断、そして
ウラジオストックから船で日本へ

撃墜事件後の緊張下に到着した
ソ連グループ
 後で聞き知ったことだが、会場の県民会館前に掲揚された参加国の国旗を、毎日取り込んで、悪戯するかもしれない不心得者に備えていたそうである。よく、テレビなどで見る風景だが、反対国の国旗を安易に踏みつけたり、燃したりすることがあるが、それこそ扇動され、感情に吹き流される愚衆の姿以外の何ものでもないし、暴徒的行動といわれるものである。一見「理」あるように見えて、最も警戒すべきところである。

 閑話休題、演劇祭のことに戻ろう。丁度富山空港が拡張工事中で使えなかった。だから、空路で富山入りするグループは小松空港着となり、スケジュールに合わせて富山から迎えのバスが出ていった。小松空港で飛行機の到着を待っていたとき、空港の係官が近づいてきて、一体何があるんですか、こんなに沢山の外国の方が、一度に来られるなんて、始まって以来初めてのことですと、尋ねられた。その通り、アフリカのナイジェリア・グループ、メキシコ・グループ、ドイツ・グループ、ブルガリア・グループ、沢山の民族衣装を着た連中が、夥しい小道具を持ち込んだのだから、人目を引いたのであった。(手厚い応対の一例は、富山から成田新東京国際空港まで出張した係りが出迎えに出て、到着した外国の参加者を羽田まで送り届ける労を執っていた。)

 前夜祭は、電気ビルの五階大ホールで行われた。参加グループの他に、ヴォランティアの皆さん、関係者、マスコミ報道陣等々でさしもの大ホールも人で一杯にあふれかえり、グループの紹介の度に歓声と拍手が響き渡った。何しろ、主催者にとって、初めての体験であるが、参加者によっては、手馴れたことである場合もあって、反応は陽気であり、すっかり楽しむ雰囲気が醸し出されていた。アフリカ連中が先導してだったろうか、かけ声に合わせて、足音高く、円く輪になっての行進が始まった。見る見るうちに輪が大きく広がって、リズミカルな動きが声援と調和して響き返り、みんなが興奮を高める。なるほど、これが国際演劇祭の参加者一同が一つになる、相互理解と友情の実体なのだと、驚き見守っているこちらの胸にもジンとしたものを感じた。(ただし、ビルの管理に当たる方々は、大変驚かれ、床が抜け落ちないかと心配されたそうだと、後で聞いた。何しろ、富山では空前の出来事なのであった。)
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