〈6〉いよいよ開幕



 開会式は富山県民会館で開かれた。参加各国の国旗とIATA連盟旗を飾った壇上には、右手に国際アマチュア演劇連盟の会長以下役員、参加グループの代表者が、左手には名誉会長の中沖知事さんを初め、深山榮会長、役員と、審査員が整列。ファンファーレの喨々たる響きと共に始まった式典は、厳粛な中にも、和やかに行われていった。全てが上手く運んで、終了を迎えたとき、会場にざわめきが起こった。富山で初めての世界的行事が無事終わろうとしたことで、それまでの緊張が緩んだのだろう、司会がこともあろうに「閉会式を終了します」とやってしまったのである。直ぐに「もとえ。開会式を終わります」と訂正があったが、「終わりよければ全て良し」の原則からすれば、とんでもない汚点を残したことになった。もちろん海外からの参加者には分からないことであったが。

 幸運なことに、開会を間近にしたころ、アメリカの大学に学んで、向こうに長らく滞在されていた小沢伊弘さんが帰国されて、演劇祭を手伝って頂けることになり、開会式を始め、全ての分野で、対応していただいた。正しく、天来の援助であった。ヴォランティアも集まってくれた。通訳を募ったところ、沢山集まってこられた。元スチュワデスの方、中高の先生たち、大学生、主婦と沢山だった。もちろん善意の方々であったが、玉石混淆の感は否めなかった。しかし、人は心で接するものであり、舌が全てではない。ただ、担当の国の人たちの要望を出来るだけ聞き入れようとして、却って自縄自縛となり、その矛先がこちらに持ってこられるのには、参ったことが、時々あった。また、時として勝手な要求を持ち出してくる国がないではなかった。「すべてに冠たる」国を以て任じているところもある。こちらにしては「鼻持ちならぬ」ところだ。

TIATFいよいよエンジン始動。

TIATF'83小沢伊弘さんの優れた語学力によって
順調に進められたスタッフミーティング
 この演劇祭はコンテスト形式として、作品に順位をつけた。審査員はAITA/IATAからと、日本から出て、厳しい選考が行われた。結果は、アメリカのオマハ、センター・ステージの演じたAint't Misbehavin'が第一位となった。アメリカン・ヴォードヴィル・ショーといった風な、歌と踊りの出し物であった。この結果 を巡って、演劇とは何かという根本問題に関わる疑問が出された。それはヨーロッパの本格演劇と、アメリカのショー演劇との対比といってもよかろう。前者は、作品の「メッセージ」を問題にし、後者は「エンターティンメント」性を評価する。独善的な某国の連中は、審査員に個人攻撃までやりだし兼ねない、そんな雰囲気だった。国際的なfestivalではコンテストにすべきでないと真顔で忠告する人たちもいた。だが、往々にして、いわゆる「お祭り」騒ぎと心得て、質的な練り上げを欠いても構わないということになると、折角のこちらの志が踏みにじられることになる。参加各劇団にベストの公演をして貰うための「担保」としてコンテスト形式を取ったといっても良いのであった。事実、それは叶えられたと思われる。だが、また反省点の一つにもなった。

 「歯が痛んで初めて歯の存在を意識する」という名言がある。単なる地名として知っていただけの国が、演劇祭にグループが参加してくれたことから、もっと身近に意識されるようになった。これも大きな意義のあることだろう。しかし、何よりこの演劇祭の意義は、かつて例を見ないほど多くの、しかも異なった民族と国籍の人たちが、共通の目的のために富山に集まって、前後約一週間、寝食、寝の方は兎も角として、食の多くを共にし、共通体験を深めることで、心情に触れ合い、理解を深め、友好的な絆を創り上げたことにある。言葉の違いに阻まれはしたものの、互いに何かを伝え合おうとする姿勢は身振り手振りと、片言の単語が十分に効果的であった。古今東西、風俗は変わるが、人情に変わりはない。だから、互いに交流することが出来るのだし、友情が生まれるのである。そのことを、関係した多くの人たちが、頭ではなく、経験を通して身体で学んだのであった。恐らく、これは富山で希有の、初めてのことではなかっただろうか。

電気ビルホールの床が
抜けんばかりの足踏み行進。

これで終わった。
よくやった。ご苦労さん。
 終夜(?)祭とでも言えばいいのか、演劇祭の全てが終わり、参加したみんなが別れていく際のことであった。各空港行きのバスに分乗するために、教育文化会館の集会室に集まった外国からの参加者たちは、ナイジェリアの連中が始めたのであったが、「トヤマ」を連呼しながら、足音高く回り始めた。そして、事務局長の小泉さんを、組み上げた馬に乗せて、更に声を高く、「トヤマ」、「コイズミ」とエネルギッシュに回り続けたのだったが、そこには、外からの何ものも入り得ないほど密着した一つの共同体が生まれていた。その歓声を聞きながら、会場外のロビーで、裏方の中心となって活動していた劇団文芸座の谷井さんと平田さんが、手を取り合って、汗とも涙とも、どちらにも取れる光るものを顔一杯に浮かべて、肩を組んでいた姿が印象的で、今でも脳裏から離れないし、廊下の椅子に座り込んだ会長、深山さんが、「これで無事終わったか」と呟かれた声も、耳朶の奥深くに記憶されている。先にも述べたことだが、この演劇祭は、劇団文芸座がアイルランド、アメリカの国際演劇祭に参加して、国際交流の楽しさを富山の方々にも体験して貰いたい願いに発していたので、文芸座は、競演に出るのではなく、特別参加という形で「夕鶴」と「三年寝太郎」を演じ、参加者が富山での滞在を安心して楽しめるように、きめ細かな受け入れ態勢のほうを、専ら担当してこられていた。だから、外国からの参加者たちの中には、あの俳優たちが何故飲み物の入った重たい箱を運んでいるのか、舞台の裏方で装置を動かすことをやっているのか、不審に思ったらしく、そのことを尋ねた人もいた。しかし、これは、文芸座の人たちにとって、特別なことではなかったのだ。例の山村巡回公演では、何時も舞台の小道具から、幕、照明、音響などの機材運びから設置に至るまで、すべてをメンバーが助け合って行っていたのだから。ともあれ、富山国際アマチュア演劇祭の成功に注がれた汗とエネルギーの90パーセントは、劇団文芸座の皆さんのものであったろう。

 出発の時が来て、集会室から人が出て行き始めた。バスに乗り込む入口で、担当通訳の人たちと別れを惜しむ抱擁が続き、バスの窓の内と外で互いに見つめ合っている人たちの顔には微笑みが浮かび、目には涙が光っていた。そしてバスは暮れなずむ光りの中を走り去っていった。そこには、新しく開けてきた交流への期待があり、新世界とのコミュニケーションの始まりを告げる何かがあった。因みに言えば、1983年は「世界コミュニケーション年」であった。
戻る 目次へ戻る 次へ