〈2〉出会い



I モート・クラーク教授
ここで得られた経験は大変意義あるものだった。 一つには、郷土富山で生まれ、活動してきた劇団がひたすら追求してきた道が、 世界で最高に評価されたと言うこと、第二には、世界の演劇人と知り合いになり、 輪が広がったこと、第三に、こういった国際的な催し事に参加することは、 知見を広め、世界に知己を得、同時にひどく楽しい経験であることを体感した ことであった。この演劇祭で知り合って、以後ずっと文芸座の、小泉さんの良き友人と なったアメリカの人、モート・クラーク教授の名は忘れることが出来ない。 小泉さんは「良き恩人」とさえ言い切っている。 モートさんはニューヨーク州のヴァルハラ、コミュニティ・カレッジの演劇の教授であり、 同時に、北米の演劇界の代表者であった。  国際アマチュア演劇連盟AITA/IATAという組織がある。 世界のアマチュア演劇を総括する組織で、北欧、中央ヨーロッパ、南ヨーロッパ、 南北アメリカ、アジアなどのブロックがあり、そこから選出された理事が集まって協議し、 計画を図り、情報を発信している。 正規会員、準会員などの資格で世界のアマチュア演劇団体が参加している。 モートさんはその連盟の理事、南北アメリカ代表の有力な理事であった。


II ピンツェーシュ・イシュトヴァーン氏
 文芸座の民話劇に興味を覚えたモートさんは、自分が主宰するヴァルハラの演劇祭に 文芸座を招待した。 1981年のことである。 恐らくモートさんは自分が見て面白かった民話劇の公演を期待していたのだろうが、 文芸座は敢えて翻訳劇を引っ提げて、アメリカに渡った。 チェホフの「結婚の申し込み」とイヨネスコの「授業」であった。 日本のエキゾチシズムを演じて賞を得たのではない。 我々にはもっと廣い演劇活動があるのだということを実証しようとする、その気概、 聞いただけで、胸のすく思いがする。 ダンドークでのモートさんとの出会いを第一のとすれば、ここで、第二の出会いがあった。 同じくチェホフの「結婚の申し込み」を演じたグループがあったのだ。 互いに相手の演技が気に掛かるのは当然のこと。 しかも、文芸座の演じたのは、日本風に翻案されたものだが、向こうのは、正当なチェホフ劇だ。 畳に座って、丸火鉢を間にして進められる劇と、椅子と机の芝居だが、中身は同じ。 劇評子の曰く、「この二つの劇団が帯同して、世界の各地を公演して回れば、東西文化の比較と してみても、極めて興味深いものとなるだろう」と。 これが、ハンガリーから来ていたプレイヤーズ・スタジオ・デブレツェン・グループと 知り合った機縁であり、代表者のピンツェーシュ・イシュトヴァーン氏との交友の始まりであった。 この時、文芸座は翻訳劇でも多くの賞を得、演劇集団として高い評価を受けたのであったし、 参加した劇団員は初めてホーム・ステイなるものを体験した。 まるで家族の一員であるかのようにもてなされた一同は、海外交流の味を今一度 噛みしめたのであった。
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