〈4〉富山国際アマチュア演劇祭スタート



 それからことは急激に展開されていった。 富山国際アマチュア演劇祭Toyama International Amateur Theatre Festival(TIATF) という名称にすることを決め、実行委員会の設立から、規約と開催要項の作成、 それらの発送。泥縄的であったが、みんなは若かった。 会長を深山榮さんに引き受けて貰い、事務局長を小泉博さんとすることにして、 委員は直ぐに動くものから構成されていた。 国際演劇祭の楽しみを熟知している文芸座のメンバーが中心になって、気配りに満ちた、 適切な判断による準備が進行していった。 英語の手紙をつくり、申込書、規約と要項とを同封して世界の各地に発送された。 後は返事を待つだけであった、何時来るとも分からない応答を待つだけであった。

公演後の批評討論会で説明する
小泉博氏

TIATF’83事前準備打ち合わせ
N.Y.モート・クラーク教授宅で
 どんな経過を辿っていったのか、詳しいことは記憶に思い出てこない。 兎に角、今脳裏に浮かんでくるのは、教育文化会館の東の隅、正面玄関を入って 右手の通路の奥、現在楽屋となっている所が芸文協の事務室だったが、 その奥の応接室と称する狭いところで、汗を流しながら、後二ヶ月で開会式を迎えるというので、 パンフレットの原稿つくりに大童だったことである。 アメリカ、ハンガリー、チェコスロバキア、ドイツ、オランダ、イタリア、 メキシコ、ソ連、ナイジェリア、カナダ、日本、13ヶ国16団体の参加が決まって、 それぞれの送ってくれた書類を整理し、英語と日本語で纏める作業に、布村弘さん、 奥原宇さん、それから事務局の人たちを交えて当たったが、可成りな仕事だった。 その書類を手に入れるまでにも、沢山のことがあった。 一例を挙げると、申し込みは英語か、日本語のいずれかでとしていたのに、 ドイツからは、それを無視したように、終始ドイツ語で連絡してくる。 挙げ句に、旅費の調達に、そちらからドイツ外務省のゲンヒャーに助成するよう 勧告の手紙を送るようにといってきた。 ゲンヒャーとは何者か、調べてみると、時のドイツの外務大臣であったが、 仕方なく、富山国際アマチュア演劇祭を開催する趣旨と、ドイツの参加に援助を 頼むという手紙を出したことがあった。 他が大抵規則を守ってくれたので、特に際立っていた。 注文の多いグループという印象が強かった。ハンガリーからはピンツェーシュ氏率いる プレイヤーズ・スタジオ・デブレツェン、アメリカはモート教授の肝いりで、 全米大会の優勝チーム、オマハからのグループがAin't Misbehavin'という題目で 参加することが分かってくる。 奥原さんからこれは有名なジャズナンバーだと教えられ、興味が増してくる。 チェコスロバキアはパントマイムグループが来ると聞いて、 マルセル・マルソゥ張りのものを想像してみたり。 ソ連からはシベリアの東、クラスノヤルスクからのグループが参加すると分かった。 連絡の手紙が来ると、それを翻訳して、次の連絡をすることになっているので、 手紙などの書類の来るのが待たれるし、来れば来たで、訳出が急がれる。

 参加団体が富山で記憶に残る楽しさを味わって行って欲しいと、 受け入れ準備がまた多忙を極めていた。 宿舎探し、食事の準備(これがまた色んな理由で一筋縄でいかない。 菜食主義者がいるし、肉類にも制限があるなど)、運搬・交通網の完備、 各国の演目解説、出演者名簿等々の印刷業務、ポスター作成、会場は富山県民会館だが、 プログラムの作成、公演日の割り振りとリハーサルの日割りなどなど、 細かくて、注意の必要なことが多かったが、こういったことは、 文芸座の団員の人たちにとって、お手の物であった。
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